ベートーヴェンからモーツァルトへ – 獅子倉シンジ【猫目力 10】展
- Maki Ikehata
- 2024年12月22日
- 読了時間: 4分
更新日:1月23日
※主観的な絵の感想を述べています。作者の意図とは異なる可能性があるため、作品に込められた本来の意味については作者に直接確認されたい。
JUPITER
今日までに、すでに2度ここに来て同じ絵を見ていた。しかし、2回とも絵に近づき過ぎ(近眼が理由で、物理的に絵に近づいてという意味ではない)たこともあり、絵から受けるメッセージを消化できないまま、記憶として残すことができなかった。この絵は、一度細部を見たら、もう一度一歩離れて見るべき絵だと思った。
ギャラリーに足を踏み入れれば、奥の壁面に展示されたひときわ輝く絵が、堂々とした存在感で、予想もしなかったような圧倒的なビジュアルインパクトを与えてくれる。その絵が「ジュピター」である。感情を抜きにして、客観的な感想だけを述べるとすると、第一印象として左側の銀白色を基調とした世界、右側に闇を思わせる漆黒という対比的な構成が、太陽系最大の惑星である「ジュピター」から連想されるとおり、宇宙の壮大さと神秘性を完璧に具現化していた。特に左側の銀白色の世界は静的で、霞のような境界線のない穏やかな陰影が果てしない奥行きを生み出している。対して右側の漆黒の世界は非常に動的で、白い絵具のダイナミックな飛散に宇宙的な広がりを感じさせ、白と漆黒との強いコントラストが印象的である。一歩近づいてみると、細やかな光の輝き、濃淡、繊細で流れるような線、力強いが集中を込めた線がそれぞれに影響し合うように絡み合っており、時間を忘れるような没入感を与える。こればかりは、写真ではなく実際に目の前に立ってみないと分からない。
作者は、モーツァルトの交響曲第41番を聞きながら、即興でこの絵を完成させたそうだ。多くの人は、この絵を見て交響曲第41番が頭の中にレコードのように流れていたと思う。残念ながら、私には音楽は聞こえなかった。音楽のインスピレーションが素晴らしい絵を完成させた時点で音楽は止まってしまうのだろうか。その絵に音楽の再現性を保持するのは、作者の意思によるものだと思う。音楽は聞こえなかったが、その代わりに私が感じたのは、実際に耳で聞く音楽以上の「余韻」だ。目を閉じると、まるで自分の前に自然の神々が光を放って存在しているようで、壮大なミサ曲にあるような重厚な響きを感じ、光と影に全身が包まれた。そしてもう一度目を開けた。神々の歌声は、聞こえるというより心で感じるのが分かった。
未来へ
絵からメッセージを受け取るには、一度は近づいたとしても、もう一歩離れて見ればよかった。特に専門を学んだわけではない一個人の私が技術を正しく分析できるはずがなく、絵を見た第一印象だけでは鑑賞者としても十分に消化したとは言えない。「ジュピター」に見た濃淡、静と動、光と闇、秩序と混沌は、そのまま自身の過去と未来のように受け止められた。中央部分の境界線は静的ではっきりと描かれていいるが、それは絵を分断しているのではなく、むしろ動的でこれから開かれる扉であり、二つの対照的な世界の調和を思わせる。とりわけ左の銀白色の世界をところどころに覆う霞は、見えない未来を暗示しているようでありながらも、扉を開けた瞬間に、おぼろげだった輪郭が確かな形を取り戻し、夢から覚めたように、鮮やかな現実が目の前に現れる予感さえする。最初に「ジュピター」を見た時の、手の震えるような衝撃と、静かだが深い感動。そんな自分の中の感性を、今日まで大事に持っていた。そのうえでこの絵からどんなメッセージが聞こえるか。なぜ世界中の人に見てほしいと思ったか。
この神々の世界を描いた壮大かつ繊細な絵の前では、一瞬時間が止まったようにさえ感じることがあった。しかし、時間は確実に前に進んでいる。この未来に進む過程で、希望や不安が錯綜するがそれでも停滞するのではなく、前に進みたいという思いが消えることはないのは、いつも目の前に扉があって、その扉を開ければいつも光があることを知っているからだ。可能性には常に光も影も存在している。
この絵を見るのは今日が最後などと思い今月3度目の文房堂を訪れたが、否これが最後であるはずがない。近い将来どこか海にほど近い美術館で、それは日本かあるいは欧州の街並と自然の美しい国のどこかで、再び出会うことになるだろう。自然光が差すギャラリーかもしれない。一面の窓からは広大な海あるいは緑が広がっているかもしれない。そこで世界中の人々がこの絵に出会い、様々な感動を語り、心に光を与え続けるだろう。
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